昭和57年 4月22日 朝の御理解   入力者【明渡徳子】
②・⑦・⑫・⑬

御理解第71節「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ」


信心の稽古をしておけと言う、信心の稽古という事を、ただ参るとか拝むという事ー、から一歩も出ない。または、教えに縛られて窮屈なー、信心を余儀なくさせられておると言ったような、そういうことが信心のように思うておる人がたくさんありますですね。良い信心というものを、いわゆる窮屈に生きて、自分からしてしまう。

んー、ここへ参って信心の稽古をしておけと。その稽古の焦点がどこに置かれなければならんかと言うと、結局、今日只今こうやってお生かしのおかげを頂いておる、天地のご恩恵の中に生かされて生きておると言ったようなことが、段々分かってくるわけですけれども、まあ言うならばそれが段々深く広く分かるという事は、いよいよ深く広く有難くなってくるという事である。

今日の、んー、えー、日傭取りやら家に病人があったりすると、そんなにまあ参ってくることも出来ない。まめな時にしっかり信心の稽古をしておけと仰るように、そのー、しっかり信心の稽古をしておくと言う事は、いつも有難いなあ、ほんとにもったいない事ではあるなあ、と言う心持ちを、いよいよほんとなものに開かせて頂く事だと思うですね。

今度、いや20日の菊栄会の方達の信心研修で、えー、このたびはー、うれしの。うれしののテレビで宣伝してます、たいしょう屋と言うあの旅館。えー、吉冨さんと、んー、源右衛門さんの、が特別に話しをして頂いて、またあちらに見えて頂いてまあ大変なサービスを受けて来たわけすけども。

ほんとにあの素晴らしい旅館でした。んー、ちょうど主婦はあそこは(けんしょう院?)これもよくテレビでやってます。というまあ世界一のヒスイが集めてあると言う所を、まあー、ところを見学させて頂いて、そして昨日お昼から帰らせてもらいましたが、えー、あちらへ、えー、参りまして、もう宴会が終わって、えー、源右衛門さんがあたくしを、あの、部屋まで送って来て下さった。

そして後はまあ皆さん、あの別のところでまあー、んー、お世話になられたそうですが、あたくしを送って来て、あたくしが休ませて頂く、そしてそのー、マッサージをされる方に、えー、2人、2人分あれしてくれと言うので、もう普通1時間なら2時間、あのーまあ揉んでもらうようにその源右衛門さんが言うて下さっておった。

で、あたくしその時に、床の部屋でほんとにあのー、これは②●こんなにサービスを受けても良かろうかと。もったいない事だとこう思わせて頂いたら、瞬間に頂いた事が、木偏にこう、あの楢橋さんの「楢」と言う字を頂くんです。これはー、その木偏に(そん?)で下に寸と言う字を書いたら、あの尊いと言う事になるらしいですね。

それをあたくしはまあ思いましたのは、んー、例えばまあ別に羽目を外すわけでもないですけれども、どんな時であってもありがたいな、こんなおかげを頂いてもよかろうかと。もったいないと言う心あらば、と言うこと●だと思いました。⑫●だからあたくしどもがいつもお参りをして来ておる。いつもー、み教えを頂いておるという事ではなくて、んー、それが実生活の上に現されていかなきゃならない。

どんな場合、例えば羽目を外すような場合であっても、こんな事でよかろうかと。もったいないことだなあ、ありがたいことだなあと、例えばいう心があればと言うのである、ね。だから結局信心とは、常日頃何を稽古するかと言うと、ありがたいことであるぞという事と、もったいない事であるなと言う事を、実感として頂けれる稽古をしておくんですね。●うん。

⑬●段々信心をさして頂きまして、まあほんとに教祖様のご信心は、人が助かる事さえ出来ればという事ですけれども、これは自分、人が助かる事さえすれば、自分はどうなっても、と言うのではないようですね。人が助かる事さえ出来ればと言うのは、もういよいよ自分が助かるという事なんです●。

宴会へ、まあそれこそうれしみの綺麗どころが6、7名ぐらいザーっとこう見えておりましたが、中に若ーい芸子さんが、んー、おりましたが、私はまだ娘さんと思うておったが、実は先生、先生っちゃ、あたくしのこと「導師様導師様」と言うんです。お父さんがキリスト教の牧師をしておられる。母はまた熱心な、もちろん、あのクリスチャンである。

自分も大体そうなんだけれども、自分の身を持ち崩して、親にも不幸し、そして実はあたしには子供もございます。その子供不幸であり、親不孝である。それで私はもう一生、もうどんなになってもよい。自分はもうどんなに難儀をしてもよい。親に、親が立ち行き、子供が立ち行ってくれるなら、と言ったような身の上話を聞かされたんですけれどもね。
だから自分の身がどうなってもよいと言うたら親は助かる、子供も助かるが、あんた自身も助からなければだめだよと。いーや、あたしは助からんでもええと言ったような、まあキリスト教的な考え方なんでしょうね。だから話してあげても分かりませんでしたけれども。うーん。

とにかく自分自身が助からなければ、子も親も助からないよと言うわけなんです。あたくしはね。やはり自分自身が助かるという事は、どんな場合にあっても、ありがたいなもったいないなという事を、おー、実感できれる信心だと思うんですね。もう自分の身はどうなってもよい、ね、自分はどんな苦労してもよいで、なら果たして親が助かるか、子が助かるかと。助からない。そんな事では助からない。

まずは自分自身が助かる。ここへ参って信心の稽古をしておけと言うことは、もうほんとの事が分かる。ね、どういうふうにその事が分かると、天地の大恩恵の中にあらなければ、また御恩恵を受けなければ立ち行かんと言うことであったりね。いよいよありがたいもったいないという事が、実感として分かる、ね。

いつもかつも言うなら教えに縛られてろということではならなくて、いつどんな場合どんな事をしておっても、そこにもったいないことじゃあるなあ、ありがたい事じゃあるなあという心があればよいと、神様は仰いますから、木偏にこのー、あれは楢という字は、それに下に「寸」を書くと尊いという事になるわけです。

寸と言うことは、ちょっと自分の心が、ちょっとどんな場合であっても、言うならばありがたいな、もったいないなという心の常態にある事を、あたくしどもの願いとしなければならない。その為には信心すれば1年1年ありがとうなってくるという、おー、ね、果たしてありがとうなっていっておるかどうか。ね、ありがとうなると言う事は、本当の事が分かって行きよるかどうか。

それでいて言うならもったいないことであるなと言う、ありがたいもったいないと言うものが、いつも自分の心の中にあるかどうか。それはどんな場合であってもそうである。お互い、まあ言うならば間違った観念とでも申しましょうかね。自分の身はどんなになっても、子供が助かってくれれば、親が助かってくれればと言ったような事がいかにもほんとの事のように言うけれどもそうではない。

まずはあたくしは信心は、自分自身が助かる、ね。ここへ参って信心の稽古をしておくという事は、いよいよそういう意味においてね、ほんとのことが分かると言うこと、ね。ほんとのことが分かれば、ありがたいことが分かってくる、またもったいないということが分かってくる。うん。そういう信心をいよいよ身に付けて行きたい。

もうあたしは子供の犠牲、親の犠牲になってもいいと言ったようなものではないと言うこと、ね。まずは自分自身が助からねばならんと言うこと。⑦●自分が助かるということは、どんな場合であってももちろんお礼の言えれる心ですけども、ありがたいともったいないが、いつも自分の心にある事。

それは例えば羽目を外しておる時であっても、もったいないなあと、こう言う心があればよいと言うように、例えば人間が人間らしゅう信心を進めて行き、分かって行くと言うのが、あたくし今日のご理解だと思うですね。●まめな時信心の稽古をしておけとね。いつもかつもということではない、ね。

ただ言うならー、日傭取りやら、または家に病人があったりしては参って来られん。そういう時でもおかげが受けられると言う信心なんです。いよいよ本当の事がわからしてもらう事によって、ほんとのありがたさやらもったいんないという事が分かる。ありがたい、もったいないと言う生活が、いよいよどんな場合でもできるという事が、信心の言うなら稽古の目当てでなからなければならない。

信心すれば1年1年ありがとうなって来るという事は、1年1年ありがたいという心と、もったいないなあと言う心が、いよいよ募って行くということだと思うですね。どうぞ。